国宝「松本城」。戦国時代に築城された現在の松本城は、日本最古の天守閣がいまでも美しく残り、白と黒のコントラストが、シックな城下町を演出している。その美しさは、見たもの誰しもを虜にする。
 明治維新時、近代国家を目指した明治政府にとって、古い体質の武家社会を一掃することが、急務の課題だった。その為、武家社会の象徴であった、全国の城郭(およそ186箇所)は、その多くが、取り壊される運命となったのである。特に、松本城は、幕府直轄領ということもあり、松本城の城郭は売却の運命を辿る。しかし天守閣だけは、地元の有志"市川量造""小林有他"らによって守られたのである。これは奇跡的な事と言えるだろう。全国的にみても、明治維新時に生き残った城郭は、22個所しかない。更に大戦や天災を乗り越え、現在まで生き残った天守閣は12個所。その内、国宝に指定された城は、犬山城・彦根城・姫路城と、ここ松本城だけとなる。松本には誇り高い人が多いという。そのプライドの象徴が、「松本城」ではないだろうか。
 江戸時代、藩都・商都・そして文化都市として発展してきた松本。信濃の中でも、善光寺の門前町として発展した長野とは、対照的な成長を遂げてきたのである。
 しかし、プライド高い松本人にとって、明治維新は、耐えがたい歴史の始まりでもあった。辛うじて生き残った松本城を拝して、果敢に長野に挑んだ近代世紀。屈辱と挫折の中でも、挑戦を続ける城下町「松本」は、今後、各地で想定される都道府県合併「道州制」問題への未来予想図とも思えてならない。
 松本の人々は、自分達の町を「長野県の松本」とは言わず、「信州の松本」と呼ぶ。奇しくも、"州"という言葉は、これからの都道府県合併問題で、頻繁に使われる言葉である。それは、一度は県都になりながら、その「都」を国策によって奪われた、松本人の誇りの言葉なのである。
 現在、松本市は、人口208,970人(平成12年国勢)、面積265.87km2。長野県は中南信の中心都市として発展を続けている。
 今回の特集は、明治維新に誕生した州「信州」をクローズアップし、松本市の問題点を探っていきたいと思います。
 松本市は、県庁所在地ではない。しかし、松本の人々は「信州の中心地は、松本」であると思っている。長野県ではない、信州である。何故、このような状況になったのであろうか。
 昔から信濃国と言われていたこの地域は、10の郡からなる。さらにその郡は、4つのエリアに分けられる。北信(更級郡・埴科郡・高井郡・水内郡)、東信(佐久郡・小県郡)、中信(筑摩郡・安曇郡)、南信(諏訪郡・伊那郡)。北信・東信と中信・南信では、山を挟んで対立が絶えない。
 明治維新時の廃藩置県により、全国の各藩は県に変わった。信濃でも、14の藩がそれぞれ県になったのである。しかし、明治政府は、誕生したばかり。厳しい財政面もあり、地方からの租税収入を増加させる必要があった。また中央集権国家として、地方の古い体制を破棄して、完全に掌握する必要もあったのです。その為に、県の数を減らして管理しやすい県を増やす必要に迫られて、強引な合県政策を進めることとなる。明治維新後、約10年間で、全国の県は合県・分離を繰り返して、現在の47道府県になったのです。
 信濃の14県は、北信・東信エリアが「長野県」、松本のある中信・南信そして飛騨国が「筑摩県」となり、その筑摩県の県庁舎が松本町に設置されたのです。約5年間、松本は県庁所在地だったのです。しかし、明治9年の県庁舎焼失による混乱の間に、筑摩県(飛騨国を除く)は、長野県へ併合されました。県庁舎焼失には、一説に放火であったとも言われています。国策が大きく作用した出来事であるが、その後二度と、松本に県庁が設置されることはなかったのです。
 長野県への併合は、松本町が幕府領として、武士族が多かったためという見方もされています。この事は、松本だけの出来事ではないのです。石川県の県庁も、明治維新時には金沢に置かれました。しかし、前田家武士の勢力が強いため、明治政府は県庁を一時、金沢から10キロ離れた美川町に移庁したことがあったのです。その後、金沢人の激しい陳情により、県庁は金沢へ戻ることとなる。もし、美川に石川県庁が残っていたならば、あるいは、長野県のように、石川県の県庁舎が富山県側に移庁されていたならば、今の状況は大きく変わっていたかもしれない。
 明治政府にとって、旧武士族はかなりの脅威であり、勢力を殺ぎたいと働いたのは確かだ。そういった意味では、松本に県庁があるよりは、離れた武士族の弱い長野に県庁がある方が、都合が良かったのではないだろうか。
 しかし、松本の人達はあきらめなかったのです。県庁舎を取り戻す戦いが、延々と続く事になるのです。
 明治・大正・昭和・そして戦後と、幾度となく県庁の松本移転・分県運動が起こり、そのたびに、県会は大混乱、そして血の闘争にまで発展もしたのです。
 そして平成の現在でも、北信・東信と中信・南信の対立は残っている。平成10年に開催された長野冬季オリンピック。この大会は、北信・東信と中信の北端の白馬で競技が行われた。それは、松本以南の中信・南信にとって、全く関係の無い出来事として捕らえられているのです。この事は、長野オリンピックに関する報道でも、幾度となく取り上げられました。
 長野県の行政都市として発展してきた長野市に対して、信州の商都(交通・産業・金融・教育)として発展してきた松本市。まるで、富山市VS高岡市にも似ているのだが、規模が段違いのようだ。松本市は、明治期から積極的な政策をとってきたのである。
 明治初期に地元有志により、開智学校↑が設立されたが、これは現在の教育県長野の始まりでもあった。その後、国立信州大学↓が設置されたが、県庁所在地以外に国立総合大学が設置されたのは、弘前大学ぐらいである。また松本には日本銀行松本支店→が設けられたが、県庁所在地以外に支店が設置されたのは、山口県の下関支店と松本支店だけだ。更に、放送局でもNHK松本放送局やテレビ信州↓・FM長野の本社が設置されるなど、まさに県庁所在地並の都市機能を有している。
<松本への県庁移転・分県運動の年表> (長野議会の沿革資料等参考)
明治 4年 (1871年) 7月 廃藩置県により各藩が県と改められ松本藩は松本県に
      11月 北部8県が長野県、南部6県と飛騨国が筑摩県となる。
筑摩県は県庁が松本城に設置
  9年 (1876年) 6月 筑摩県庁が焼失。放火の疑いも。国の合県政策で、
長野県に筑摩県が併合
  13年 (1880年) 7月 県庁を県の中央に移すべきだとする建議書が県会に
提出されたが否決
  21年 (1888年)   松本町が市制施行を決めたが、移庁分県運動や県庁
所在地の長野が市制施行していないことから実現しなかった
  23年 (1890年)   移庁建議書が提出されたが、賛成議員が襲われるなど
県会が混乱し、建議書は立ち消えとなる
  40年 (1889年) 5月 松本町が市制施行。人口3万人の松本市が誕生
  41年 (1908年) 5月 県庁舎が焼失。再び松本への移庁論が出る
大正 15年 (1926年)   郡役所廃止の際にも、松本への移庁運動が起こる
昭和 8年 (1933年) 4月 県庁松本移転の意見書案が提出。県議会は空転し、
県会が時間切れとなり立ち消え
  23年 (1948年)   県庁舎が一部焼失。分県論が高まり、分県調査委員会
で分県案が可決される。
      3月 本会議採決で、反対派議員が牛歩戦術をとり県議会が
空転状態となる
        知事が議会調停に入り、知事調停書が調印された
      4月 分県意見案が採決された。賛成が反対を上回ったが、
欠席者と白票で法定得票数に1票届かず議決出来なかった
  37年 (1962年)   県庁新築問題を機に、松本移庁論が再熱
  38年 (1963年) 7月 新産業都市に松本・諏訪地区が指定されたことで、
移庁に関する決議案は見送られた
 しかし、松本の人口も、明治期まで長野を上回っていたのですが、現在では、松本市が20万人に対して長野市は34万人。人口は逆転し、大きく溝を開けられた格好である。もし、県庁が松本にあれば‥そう思うのも極々自然の事ではないだろうか。
 これは、1つの県として独立できたエリアが、国策という名のもとで独立できず、一種の植民地的なエリアで甘んじてきた為によるものなのです。自分達の意志とは関係無く、他の県と合併させられたら、どうなるかはわかっつていたはずです。決して信州の人々にとって、幸せな出来事ではなかったのではないでしょうか。そしてそのことは、過去の話ではないのです。
 「信州」なんとも皮肉な名称です。
 松本への県庁移転問題が出るたびに言われてきたことがある。「長野市では、県庁所在地として北端に偏りすぎている。もっと県中心部に、県庁を設置すべきだと‥」。どこかで聞いたことがある内容ではないだろうか。いま、注目があつまる道州制問題。当サイトでも、北信越の州問題は議論が絶えない。特に州都問題は、そんな簡単に決められるものではないようだ。州都として地理的に端であるとか、人口で上回っているとか、そのようなことでは決められない事が、「信州」で証明されているのではないだろうか。問題なのは、国策という名のもとで、物事が進められることに、大きな疑問点があるのです。まず「道州制」ありきで、話しが進めば、決して幸せな将来は来ないでしょう。極狭いエリアの市町村合併問題と大きなエリアの都道府県合併問題を、同じように扱ってはいけないです。
 長野県では100年以上も、この2県(長野県・筑摩県)統合による「州」問題で、争いが続いている事を、われわれは肝に銘じる必要があるでしょう。征服するもの、されるもの、これが「州」問題の実態なのですから。
 松本の人口は、20万9千人。平成12年8月に、福井市などとともに「特例市」へ昇格した。特例市は、人口20万人以上の都市が政令で指定される。県から市街化区域(及び市街化調整区域)の開発許可などの事務行為を移管されたり、本庁の出先機関(支所・出張所)が設置できるとされている。
 一方、ライバルの長野市は、人口34万人の「中核市」に昇格している。中核市は、人口30万人・面積100km2以上の都市が、政令で指定される。中核市になれば、保健所の設置・屋外広告物の条例規制など、県からの移管業務が更に増える。政令指定都市の次ぐ扱いになるが、区の設置や区役所の設置は、中核市では行えない。
 合併特例法の期限である2005年春に向け、松本市でも、市町村合併論議は続いている。果たして、ライバル長野市に追いつけることが出来るのか、注目される。
都市名 人口 面積
松本市 208,970 265.87
四賀村 6,108 90.25
(小合計) (215,078) (356.12)
波田町 14,432 59.42
梓川村 10,162 42.40
安曇村 2,686 401.50
奈川村 1,107 117.65
<合計> 243,465 977.09
 松本広域圏の人口は、42万人。松本市では、「基本構想2010」の中で、松本広域圏19市町村による合併を視野にいれながら、「長期的視野に立って、中核市の要件である30万都市の建設をめざす」と位置づけられています。42万都市になれば、長野市との人口差は逆転することとなる。
 しかし、現在のところ、合併への道程は厳しいものがあるようだ。合併が具体的に進みそうなのが、四賀村との1対1の合併であり、今年7月から「松本市・四賀村合併協議会」がスタートしたばかりである。このほかには、今年4月に「松本西部任意合併研究会(松本市・波田町・安曇村・奈川村・梓川村)」がスタートしたが、合併協議会への移行までには時間が掛かりそうだ。
 これらの合併が全て実現しても、実は人口はさほど増えないのです←。更に、山間部が多く、市の形も異物なものになりそうだ↑。
 とりあえず、合併しやすい山間部の町村を先行させ、合併特例債をまず獲得するという、したたかな戦略が見えてくる。
 しかし、近い将来の中核市昇格を目指すには、人口の多い盆地部の市町村との合併協議は、避けては通れない。今回の松本西部任意合併研究会設置の際にも、盆地部に近い山形村からは、参加拒否をされている。松本市が中核市になるためには、隣接する都市とのさらなる合併が必要だ。市北部の豊科町(人口2万7千人)・三郷村(人口1万6千人)・堀金村(人口8千人)などとの合併か、市南部の塩尻市(人口6万4千人)との合併が不可欠である。これら人口の多い市町村とでは、総論賛成各論反対という問題点を解決しなければいけないだろう。
 高岡市が、中核市を目指した際にも、中核市になるという事自体は、周辺都市から賛成あるいは理解されたが、各論部分になると難しいという答えしか返って来なかった。結局、高岡市は、福岡町とのささやか合併に期待を込める状況であり、中核市どころか特例市も難しくなったのである。
 松本市は、人口以上に都市の成熟度が高い。そういった意味では、県第2都市ではあるが一種の"副県都"とも言えるだろう。合併を進める際にも、地域のリーダー都市として"おとなの対応"が求められるところである。
 合併される都市への配慮が重要だ。豊科町や塩尻市に、何を譲り、どんな都市一体化を進めていくのか。道路・鉄道をはじめ、出先機関や公共施設配置を含め、大松本市のグランドデザインを示す時期に来ているのではないだろうか。それは、松本市の将来像を示すのでは無く、松本広域圏全体の将来像を意味するのです。
 中核市になって、どのように良くなるかという部分も重要だが、広域都市圏が合併することで、観光・教育・産業・そして居住環境などが、いかに改善され"プライドの持てる都市"あるいは夢が持てる都市"になれるかを、わかりやすく訴える必要があるのです。
 かつて筑摩県庁が置かれていた、松本城は二の丸御殿前にある松本市役所↑。単なる20万都市の市役所ではなく、松本広域圏さらには中信・南信の中心行政機関としての役割が今後は求められて行くのではないだろうか。「誇りある松本」の復活が期待されることろである。
 城下町の宿命は、小路が多いこと。戦に備えて、狭く入り組んだ街並み整備が行われたが、現代のモータリゼーション時代には、不便な街並みとなる。特に松本市は、今も歴史的な建造物が多く、景観保護も含めて、近代都市への脱皮は難しいと言える。
 それでも、松本市の中心地は狭いながら、道路整備やビル化が進んできた。松本駅周辺↑を中心に、駅前通りは近代的に整備され、北信越の中でも県第2都市としては、もっともビルディングのカーテンウォールが進んでいる。都市機能的にも、県都である福井市駅前周辺をも上回っているのではないかと思われるほどだ。
 しかし、車で移動するには、まだまだ不便である。天気が悪い日や、休日などには、簡単に渋滞が起こる状態だ。そこで、松本市では、新たな都市道路整備を進められてきた。昨年、その新しいストリート「伊勢町通り」←が開通。松本インターから松本城へのアクセス道路として、国道143号線と直結する形で、市街地は拡がりを見せようとしている。道路は2車線と、決して広くは無いが、歩道が広く確保され、街路樹や水辺空間、さらにからくり時計↓などのエンターテイメント的要素も盛り込まれた。約20年の歳月を掛けて整備されたこの新道にかける、松本市の思いが伝わってくる。
 これまで、松本駅から松本城へ向かう場合、公園通りがメインストリートであった。道幅が狭く、商業地としては衰退の一途を辿っていた。この公園通り、メイン商業施設は「パルコ」↓である。以前は売り場面積7千平米程度の小さなファッションビルであったが、伊勢町通りの整備にあわせ、7年前(1996年4月)約50億円を掛けて増床を図り、売り場面積は約1万5200平米、テナント107店でリニューアルした。
 公園通りも、伊勢町通り開通に合わせ整備され、観光都市そしてファッション都市としての面目躍如を果たしたと言える。公園通りには、噴水などを配した空間整備や大型の駐車場も整備され、衰退が著しかったこの地域に消費者を呼び戻そうとしている。
 また伊勢町通りには、市の公共施設として中央公民館(Mウィング)↓も整備された。南棟と北棟からなる5階建てのビルには、女性センター・福祉ひろば・中央保険センター・多目的ホール・体育館・図書館・駐車場が整備され、人の流れは確実に変わろうとしている。
 なんとなく近年の高岡市改造に似ている部分があるようだ。松本の新道「伊勢町通り」やMウィング・パルコ増床に対して、高岡の新道「えんじゅ通り」や駅前西第一街区再開発ビル(生涯学習センター、新中央図書館)・大和高岡店建て替え。行っていることは同じなのだが、何故か、華やかな松本に対して高岡の方は、とても地味に見えてしまうのだが。また中心地の賑やかさも、大きな差を感じてしまう。これが格の違いなのか。
 更に、松本市街地の改造は周辺地域にも及んでいる。↓
 歴史的景観が漂う、女鳥羽川周辺の整備も進んだ。2年前に新しく整備された「縄手通り」←は、石畳の雰囲気をふんだんに活かし、大正・昭和の下町情緒を思わせる景観は、観光都市松本の新しい顔である。
 約280メートルのストリートには40軒ほどの個性的なお店が並ぶ。縄手通りのシンボルは、カエル大明神。メトバとゴウタの石造が、庶民的な街並みのアクセントとして鎮座している。古さの中にも、新しさを感じさせる街へと成長したようだ。
 更に、縄手通りに程近い千歳橋周辺も、ストリートパーク的に整備された。程よい広さの広場と歴史的景観、そして近代的なオフィスが、絶妙に絡み合った雰囲気を持たせている。特に新しいビルに関しては、無機質なものから景観に配慮したものへと移行している。勿論、それだけ建設費も高いビルであろうが、こういったビルの顔も、松本の新しい景観に寄与しているようだ。高岡のえんじゅ通りが、さほど美しく見えないのも、こういった細かいデザイン配慮に欠けているのではないだろうか。
 縄手通り・千歳橋・伊勢町通りの近くには、蔵のまちとして名高い中町通りがある。←これら、観光スポットが大きく整備され、これまでばらばらだった街の流れが、うまく結びつこうとしているように思われる。松本は、若い女性に人気の高い街ではあったが、今後更に注目される都市になると確信した。あとは、ソフト面と情報発信機能をいかに持たせられるかが課題であろう。
 松本市には、地元資本の百貨店として「井上百貨店」↓がある。これまで、公園通りからは離れたエリアにあったのだが、公園通りやパルコへ抜ける新道が整備され、今まで点と点だった商業エリアが、一体感を持ちはじめたようだ。松本唯一の百貨店として、地元商業エリアに貢献している井上百貨店は、本館・新館合わせ売り場面積2万平米。これにファッションビルパルコが結ばれる意味は大きいといえる。
 しかし、一方で井上百貨店は、郊外にも出店するなど、老舗百貨店以外の顔も持っているのが興味深い。平成12年10月に松本市に隣接する山形村に、「アイシティ21」をオープンさせた。井上百貨店(売り場面積1万2千平米)・専門店街・シネコン(長野県初)・NHK文化センター・ベスト電器から構成されるショッピングセンターで、大型の駐車場を完備している。大手スーパーが企画した郊外型ショッピングセンターに百貨店が併設される事はあるが、地方の老舗百貨店が企画した郊外店舗は珍しい。
 今回の一連の整備によって、観光文化都市「松本市」の都市改造が完了する。中心商店街・観光スポットが一体感を持ちはじめ、明らかに10年前に比べると活気が出てきたように思われる。
 同じ城下町の金沢市に比べるても、街がコンパクトであり、庶民的な雰囲気が好感度をあげている。しかし、観光都市「松本市」として、あともう一声欲しいのが、人の匂いだである。例えば、金沢の近江町市場や長野の善光寺前仲見世通りのように、売り子やお店がストリートに溢れる光景が、松本には欠けている。縄手通りなどが、その可能性を持っているが、まだ街の演出が足りないのではないだろうか。「街に人の匂いがする」それが可能になった時に、"新しい松本"が完成するように思われた。
 松本中心部の都市改造は、確かに進んだ。しかし、どうしても、改善できないのが、鉄路による街の分断である。
 山に囲まれた盆地に発展した街の中央を、東西に分断するように伸びるJR線。JR松本駅から東側の山まで発展した街は、今いわゆる駅裏へと発展しようとしている。高速道路の松本インターも、JR松本駅西側に立地している。しかし、JR松本駅西側から東側へ行こうとするならば鉄路を越えるしかない。特に車で移動するには、渋滞を覚悟する必要がある。それはJR線を跨ぐ幹線道路が、3本しかないからだ。
 JR松本駅東側の中心地が近代的な景観を見せてるのに対して、JR松本駅西側は別世界である。
 JR松本駅には、西口も設置はされているが、駅前通りというものは無い。↓JR線を挟んで東西を結ぶ連絡通路↓もあるのだが、何ともさびしいものがある。北信越の第2都市の中では、もっとも駅裏整備が遅れていると言えるだろう。
 井上百貨店が、松本駅西側に位置する山形村に出店したのも、この街を分断するJR線がある為だと考えられる。
 松本市にとっては、JR松本駅の連続立体高架化を行いたいところだが、市街地が密集している松本駅周辺の場合は、建設費が600億円程度かかるのではないだろうか。
 ここでも、ライバル長野市の存在を無視できないだろう。新幹線が乗り入れされ、陸橋化駅舎として整備された長野駅に対抗したいところだ。
 しかし、JRの連続立体高架化になると、長野市側からの反発が予想される。県都よりりっぱな駅舎になる事への牽制があるのです。かつて、高岡市はJR高岡駅の連続立体高架化を構想した際に、富山県などから、県都富山市でも行っていない事を理由に、連続立体高架化が実現しなかったことがある。
 同じような駆け引きが、松本と長野でも行われるのではないだろうか。しかし、松本駅西整備は重要だと考える。出来れば街の分断状態を、JR線の連続立体高架化で解決したいところだが、松本市の対応を注目したい。
 とりあえずは、松本駅西口から国道19号線に抜ける駅西大通り(新道)の整備が必要であろう。できれば、その新道中央に松本電鉄が乗り入れることで、街の拡がりを促進させたいものだ。そして松本電鉄を、ミニ地下鉄あるいは路面電車化させて、駅東側へと延伸することも検討してはどうだろうか。松本城とJR松本駅そして上高地の玄関安曇とを鉄路に結ぶことで、東西連絡交通機関としての役割は勿論、環境面に配慮した観光都市路線として役立たせたいものです。
 松本市街地には、今はやりの100円バス(愛称タウンスニーカー)↓が走っている。松本駅と松本城をはじめとした観光スポットを巡る2路線は、大変便利で利用者も多いようだが、都市としての機能強化の為には、市街地への鉄路敷設はメリットが大きいと考える。特に路面電車化は、城下町松本に似合っているのではないだろうか。また、利用者が減少傾向にある、松本電鉄←を延命させる意味もある。
 郊外は高速で走り、市街地は歩行者と共生してゆっくりと走る。それが次世代の路面電車(LRT)の良い点でもある。
 例えば松本電鉄を、国道19号線から松本駅西までの間は、新道とともに路面電車として乗り入れさせ、松本駅が連続立体高架化されれば、そのまま平面で、非高架化であれば地下立体交差で駅東側へ延伸させる。その先は、公園通りのトランジットモール化(歩行者と路面電車専用道路)と大名大通りを、アーケード併用型の高架化を行い、松本城まで整備するのです。
 欧州は勿論、いま全国的に路面電車は見直されています。特に、道路整備が進んだ都市よりは、むしろ城下町のような道が狭くて入り組んだ都市の方が、路面電車は向いているようだ。
 長野市街地では、新道建設に合わせて、長野電鉄が一部地下鉄化されたが、次は松本市街地の番である。新しい都市交通機関として、全国に誇れるものを是非検討してもらいたいものだ。スローリーな都市環境は、新たな名所になるでしょう。
 長野市と松本市は、その都市抗争でいろんな面を分け合ってきた。松本には空港↓が整備されたのに対して、長野市には新幹線が整備され、長野では冬季オリンピックが開催されたのに対して、松本では国体が開催された。
 このような棲み分けは、今後も続いて行くだろう。しかし、地域間を結ぶ交通機関整備は、今大きくそのバランスを崩そうとしている。
 東京から松本へ向かう特急電車がある。有名な「あずさ」号だ。東京と地方都市を結ぶ特急電車で、県都を経由しないという路線は、そんなに多くない。松本と伊豆ぐらいである。「あずさ」号はもちろん県都長野を経由しない。つまり、松本にとっては、東京とは直接的な付き合いができる間柄なのです。これは、松本人の独立心を育む要素とも言えるのだ。「長野は上野で、松本は新宿だ」など、些細なことでも自慢される人が多いのも事実である。
 いま松本では、東京と松本を二時間以内で結ぶ特急電車の実現を目指している。北陸新幹線で東京ー長野間が、約100分で結ばれたことに対抗する意味合いもあるだろう。しかし、実現するためには、中央線単線区間の複線化や、重レール化などによる130キロ〜160キロ走行が必要となる。また、リニアモーターカーによる中央新幹線構想との絡みもあり、実現までには、紆余曲折が予想される。
 松本市にとっては、特急の高速化より中央リニア新幹線の支線誘致を進めたほうが得策ではないだろうか。中央リニア新幹線は諏訪湖近辺を通過する。そこから松本までは30キロ足らずである。もし、支線誘致が実現すれば、東京ー松本間・名古屋ー松本間は、約20分で結ばれるのです。
 長野の北陸新幹線とは、比べ物にならないほどのインパクトが、中央リニア新幹線の支線誘致にはあるのではないだろうか。
 松本にとって、更に課題なのが、松本空港である。1994年の滑走路延長で2千メートル化され、ジェット機の就航が可能になったのだが、その利用状況が芳しくない。現在、松本空港は、札幌便・大阪伊丹便・福岡便が就航している。この内、今年4月から大阪伊丹便・福岡便は、ジェット機からプロペラ機に変更されたのです。長野県の田中康夫知事が、記者会見で運行している日本航空グループを、痛烈に批判されたのは有名である。現在、松本空港では、夕方5時の最終便を過ぎると、完全に入り口ゲートが閉鎖される。
 ジェット機の定員が100名以上なのに比べると、プロペラ機では定員が70名ほど。その上、着陸使用料金もプロペラ機では大きく下がり、県の財政を圧迫している。。県としては頭の痛い問題である。しかし、その打開策は、航空会社への陳情ということで、これまでと変わらないやり方しかないようだ。
 かつて筑摩県が存在した時、飛騨も筑摩県のエリアであった。しかし、実際には飛騨と松本の間には、北アルプス山脈が横たわり、容易に行き来することが出来なかったのである。野麦峠の話は有名であるが、冬場は勿論、夏場でも人の往来はあまり盛んではなかったのが、つい最近までの話である。しかし、中部縦貫自動車道の安房トンネルの開通により、年間を通じて飛騨と松本が結ばれた。この経済効果は、計り知れないものがある。観光ルートとして、あるいは産業ルートとして、車の往来が大幅に増加したのである。これは単に飛騨と松本が結ばれただけでなく、東京ー松本ー飛騨ー富山が結ばれたことをも意味するのである。今後さらにこのルートは脚光を浴びるとともに、松本の新しい武器になりそうだ。
 名実ともに、飛騨を松本経済圏に取り込むだけでなく、北陸と東京を結ぶ中継貿易都市としての機能も期待できるのだ。しかし、問題点も多い。特にトンネルは開通したが、肝心の中部縦貫自動車道整備が進んでいないのだ。←
 トンネル以外は、まだまだ道が悪く、時間短縮効果を生み出せないのが実情である。また中部縦貫自動車道は、高山ー松本を結ぶが、富山ー松本間の道路整備構想が無い。折角の山岳越えではあるが、日本海側へ抜けるルート確保が今後課題となるであろう。
 松本は、その歴史背景からいろんなことを教えられる。今後、進むであろう都道府県合併問題を始め、県第2都市としての課題や取り組み方でも、参考になることが多いと感じられた。今後も、松本市の動向が注目されるとともに、楽しみでもある。
2003.8.20作成
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