全国で、都市間競争が激化している。少子化・高齢化、そして大都市と地方都市の格差拡大。大きい都市には、人・物・金・情報が集まり、そのチカラが更に、人・物・金・情報を集める。
 強い都市は更に強い都市へ、弱い都市は更に弱い都市へ‥、そういった好循環と悪循環の都市へと分かれて行くことに。
 そして、これからは地方分権・道州制も取り沙汰されている。特に 「州都」 は、道州制の必要性とは関係なく、いまや都市間競争の主役となった。
 北信越でも、都市間競争が激化している。北信越で覇権を目指す 「新潟市」 と 「金沢市」 に挟まれ、「越中」 はどうすれば、生き残れるのだろうか?

 本当に越中は、ひとつですか?
いま 「越中」 という言葉が見直されているが、それは、何故だろうか?

 越中は、昔から呉羽山を挟んで、呉東・呉西に分けて語られる。この呉東・呉西を挟んで「富山さん」や「高岡さん」とも呼ばれたりもする。同じ県なのに、よそよそしい言い方ではないだろうか。何故こうなったのか?
 その原因を考えると「文化の違い」、いやいや「文化の壁」というものが感じられるのだ。

 例えば、お祭り。獅子舞では、呉東と呉西で大きく異なる。
 呉東では、2人が入る二人立獅子。呉西では、多くの人が入る百足獅子。全く趣きが違う。ご祝儀などでも、呉東と呉西では大きく異なるのは有名な話。特に、呉西では付け届けに厳しい土地柄とも言われている。

 そういった、呉東と呉西の文化の違いはいっぱいある。しかし、もともとはどうだったんだろうか。

 越中国が誕生したのは、今から遡ること千三百年も昔の話。今の福井県北部から山形県庄内まで及ぶ、広大な「越の国」が3つに分割され、越前国・越中国・越後国が生まれました。そして西暦702年には、今の富山県と同じエリアが「越中国」となった。
 石川県が加賀国と能登国から、福井県が若狭国と越前国から出来てるの対して、富山県はなんと千三百年もの間続いた、越中国ただ一国で出来ている。これは、北陸で唯一ですし、誇りではないだろうか。

 山と海に囲まれた、とてもコンパクトな越中国。想像ですが、誕生の頃はきっと、「越中は、ひとつ。」だったのだろうと考える。それが、文化で呉東と呉西に分かれてしまったのは、いつのことだろうか。

 いま一般に言われる文化。そのほとんどが、江戸時代に生まれた民衆文化に影響を受けている。例えば、七夕祭りやひな祭りなどは、もともと宮中のお祭りだったものが、江戸時代に民衆へと広がり、今日まで続いている。戦国時代が終わり、太平の世となると人々の心に余裕が生まれ、それが文化の花を咲かせた。そして、今日へと根付いていく訳です。民衆文化が大きく育った江戸時代、越中国は2つの行政下に分かれてしまう。
 戦国時代に佐々成政が失脚し、替わって加賀藩が越中国を支配。そして江戸時代の1639年に、「加賀藩」から「富山藩」が分かれた。以後、明治維新までの260年、越中国は、経済力が違うふたつの藩の影響を受けることとなる。そして加賀藩の領地では、金沢文化の影響を色濃く受け、富山藩とは大きく異なる文化が育つことになった。
 越中にとって、実は江戸時代は、とても不幸な時期であったと言えるのだ。それは、千三百年続く越中国の歴史の中で、江戸時代の240年間だけが、ふたつの行政に分かれてしまった事で、富山と高岡に文化が分かれてしまうからだ。人々の気持ちにも、無意識に東西に分けるようなDNAを植え付けた時期だとも言えるだろう。加賀藩の植民地となった事で、富山の存在感は薄れて行く。240年間の影が、いまも続いている。


 「もしも、佐々成政が、江戸時代も越中国を治めていたならば‥」、どうなっていただろうか。おそらく、越中国の民衆文化は、ひとつとなっていたはずだ。
 越中の中央に位置する小高い呉羽丘陵を境に、「呉東」 と 「呉西」 とも言われる。「山があるから、文化が変わる」 とも言われたりするが、実際には、江戸時代の加賀藩と富山藩の境界線が、民衆文化の分水嶺である。

 明治維新後の廃藩置県を経て、越中国は石川県から分県、行政は一本化された。再び独立した行政エリア「富山県」となったのである。しかし、そこには血のにじむ努力によって勝ち取った、歴史を忘れてはいけない。
 そういった経緯にも関わらず、それから更に140年も経った今でも、富山県内には、文化の違い・心の分水嶺が残っている。

 今日、少子高齢化時代を迎えて、富山県は岐路に立たされている。地方と大都市の格差、道州制、都市間競争と、富山県の将来も不透明だ。しかし、千三百年の歴史がある越中国は、これからも生き残って欲しいと願わくにはいられない。
 その為には、今こそ「心で越中は、ひとつにまとまる」必要があると考える。


 今年の4月1日、日本海側初の政令指定都市「新潟市」が誕生した。新潟市は、これまでも日本海側最大都市として、日本海側唯一の新幹線を始め、港湾整備や空港・道路網整備など、北陸を圧倒するインフラが整っている。
 しかし近年、新潟の危機感は増大している。地方財政の行き詰まりや、地方分権の行方など不透明感が強い。とりわけ、2014年問題で、上越新幹線が支線となることへの警戒感。それが、対金沢へと向けられている。
 この危機打破の為に、県・市・経済界を挙げて、新潟市の政令指定都市実現を目指してきた。

 上越新幹線と同時期に開業した東北新幹線。その東北では、仙台市が政令市に移行し、その後は飛躍的に発展。いまや、人口100万人を超えるまでになっている。新潟では、これまでも仙台と比較してきた。「新潟市が政令市になっていれば‥」、そんな長年の夢が、遂に実現したのである。
 しかし、新潟市は単に政令市となっただけではない。将来に向けての戦略が、既に始まっている。その軸となっているのが、行政区をメインステージとしたまちづくりだ。
↑政令市に昇格した新潟市役所。中央区役所が併設されている。

 新しく政令市となった「新・新潟市」には、県から1157にも及ぶ事務を移譲された。これまで、県にお伺いを立てていた政策を、これからは、市の判断で推し進めて行くことが出来る。
 それだけではない。今後は、様々な事業を行う際に、国と直接交渉ができるのだ。市独自の事業を積極的に展開出来るメリットは、街づくりにおいて、強力な武器となろう。

 新潟市の篠田昭市長は、「政令市移行後は、区がメインステージだ。権限・財源を可能な限り区役所に移譲し、各区が特性を活かしたまちづくりを目指す。」 と表明している。つまり、区を軸とした分権型の行政を実現し、市民の満足度が高い行政サービスを行おうというのだ。
 市の予算規模も、政令市となることで拡大した。2007年の総額は、3千億円を超える。また、これからの道州制を見据えて、新潟市では州都化も想定するという。

 越中にとって、将来の政令市を視野にいれた場合、政令市となった新・新潟市の取り組みや戦略は、非常に参考となる。
↑新たに設置された新潟市江南区役所。かつての亀田町役場をそのまま使用している。
 金沢や仙台などは、城下町という 「歴史文化」 を抱えている。加賀百万石という名のもとに、金沢市民は心が繋がっている。市民のチカラが結束できるかどうかは、街のパワーへ直結する大事な要素だ。
 これまで新潟では、市民が一体となるような文化面での魅力に欠けていた。しかし、今では 「スポーツ文化」 で、他を圧倒するほどの一体感をもっている。
 「アルビレックス」 という名のもとで、いまや市民が結束できる。このパワーは、政令市の実現とともに都市としての武器となるだろう。大きな弱点を、完全に克服したのだ。

 これらの都市に比べて、越中はどうだろうか?。心は一体となっているだろうか?。呉東と呉西、富山市と高岡市。 「文化が違う」 とも言われるが、それでいいのだろうか?
 越中は新潟市を参考に、地域の誇りを保ちつつ、心も一体化できるような都市づくりを目指すべきだと考える。その為のハードルが、政令指定都市だ。新潟市が、この高いハードルをクリアしたように、越中でも挑戦する価値はある。


 富山市は、広域合併で42万都市となった。合併は7市町村。山間部の町村合併もあった為、人口以上に面積が広がる結果となった。
 その為、都市型行政と農林型行政が共存するという、複雑な自治運営が必要となっている。しかし、中核市の富山市では、メインステージは富山市役所となり、現場から遠いという問題を抱えている。富山市では、旧町村役場を活用した総合行政センターを設けているが、行政サービスのレベルは、新潟市などの区役所には及ばない。
 もし、富山市が政令市に移行できれば、多くの住民密着な行政サービスを実現できるだろう。
 越中で、政令指定都市を実現させる。これは、単に行政効率を高めるだけではない。都市間競争に勝ち残る、そして地方分権時代で主役となる‥、そういった前向きな戦略である。さらに、政令市が秘めてる魅力が、地域密着・住民密着の行政サービスの実現だ。とかく大きな都市になると、行政サービスが下がるとか‥、住民の意見・意思が反映されないとか‥言われるが、実際には、政令市となれば、住民へのサービスがより向上する。その違いは、政令市となった新潟市と中核市のままの富山市を比べれば、一目瞭然だ。
 合併の際、中核市や特例市をはじめ、これまでの市制レベルでは、大きい都市側が 「主」 となり、小さい都市側が 「従」 となる 「主従関係」 となってしまう。そのことが、地域の独自性を保てないとして、合併しない理由となっている。しかし、政令市となる場合は、行政区を設けることができる為、大きい都市側も小さい都市側も 「主」 とすることができ、「主主関係」 とできるのだ。本当の意味での対等合併が実現できるメリットは、意義があるだろう。

<政令市で、区のブランド化>

 さらに、政令市の魅力としては、区がブランドとできる点がある。越中で政令市を目指す場合、富山市・高岡市・射水市の合併となる。その場合、市の名称は重要ではあるが、もっと大事なのは、住民が誇れる地元の地名を残せるかだ。
 中核市では、地域の名称は消滅するか、目立たなくなってしまう。しかし政令市になれば、行政区の名称として地域名を残すことができる。むしろ行政区の名称が、都市のブランドを底上げさせる効果も期待できるだろう。

<県と政令市の一体化>

 越中で、政令指定都市が実現させる場合に、最大の問題となるのが県と政令市の権限問題。コンパクトな富山県で、巨大な政令市が出来た場合に、政令市と県とのバランスを如何に調整するかは難しい。しかし、協調関係を築くことは、やり方次第といえる。
 当HPで提言しているのが、県庁と新政令市の庁舎を一体化させる案だ。老朽化した県庁舎を移転させ、そこに政令市となる市役所も併設させる。そうすれば、県と政令市の職員は、いつでもお互いを行き来できるようになる。そして、県と政令市が、情報共有しながら積極的に戦略を議論できる環境を実現できれば、全国に例のない強力な行政運営も可能となるだろう。勿論、県の役割も維持発展が期待できる。県と政令市が、二人三脚で、越中の底上げを図るのだ。


<レギュラーHP 富山に 「政令指定都市」 誕生を! リンク>

政令指定都市実現で環日本海の中心都市へ!
政令指定都市の実現で富山を地方を変える!(新合併組合せパターン案の提言)


 「立山連邦のパノラマ」

 越中の広い範囲で、立山連峰を拝むことが出来る。絶景ポイントもいっぱいだ。どこでも、額縁さえ持って行けば、自然の絵画が楽しめる。そして立山は、私たちが意識しない内に、生活の一部として、しっかり根付いている。

 越中人にとって、立山はまさに 「心のよりどころ」 だ。 それは越中の人達みんなが、立山の勇姿で 「心と心が繋がっている」 と言えるだろう。まさしく、越中ならではの普遍的な 「自然文化」 が、そこにはある。つまり、越中のアイデンティティは、立山連峰なのである。

 しかし、現代においても、越中はひとつにまとまっていない。特に、富山市と高岡市だ。お互いのことに関しては、どうしても 「よそよそしい表現」 をする。 「見えない線」 を、ついつい引いてしまう。それが現実問題としてある。
 千三百年、単独エリアとして続いた 「越中国」 は、本来なら 「誇れる国」 として、確固たる 「心の一体化」 があるべきだろう。なのに現実は、越中国の真ん中で、私たちはいまでも 「心の分水嶺」 を引いている。同じ国なのに、寂しい限りだ。


 そして今日、少子高齢化・地方と大都市の格差・道州制・都市間競争など、多くの問題を抱えて、越中国の将来には暗雲が漂っている。

 政令指定都市へ昇格した 「新潟市」 や、加賀百万石の 「金沢市」 では、北陸の中心都市を目指して、都市集積を進めている。越中は、この二大都市に挟まれて、完全に埋没した。
 越中はこれから、「どうすればいいのか‥、どう立ち向かうべきなのか‥。」

 私は、そのキーワードとして、「越中が、真にひとつとなる」 ことを挙げたい。

 そのシンボル(証)として、呉東呉西の垣根を越えた政令市「大越中市」をつくる。そして中心軸となるのが、霊峰立山に代表される「越中の自然文化」ではないかと考える。「こころのよりどころが、文化となる。」
 絵になる風景を題材とした、越中だけの唯一無二な芸術文化や都市ブランドが、花開く土壌は十分にあるだろう。

 「北陸はひとつ」 との声もありますが‥、まずは 「越中はひとつ」 にまとまらなければならない。その実現があってこそ、初めて都市間競争に立ち向かうことができると考えるのだ。

2007.4.16作成 (2007.4.25改訂)
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06年7月特集第13号<07年3月改訂版>
「越中を変える5つの提言!」
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06年11月特集第14号
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