富山の中心市街地は、近年、著しい衰退を見せている。行政や地元商店街では、衰退した要因を郊外店が増えたことだとしている。しかし市民目線でみれば、中心市街地に市民が求めるものが少ないからだとなる。重要なのは、高い駐車料金を払っても来たくなるような都市環境をつくる事が求められていると考える。
また、「民間がつくる街」 と 「行政がつくる街」 では、圧倒的に 「民間がつくる街」 の方が、魅力的である。特に、行政が中心に行った都市再開発は、全国的にみてもそのほとんどが失敗している。立派ななハコモノは造れるが、人を動かすという魂が入っていないからだ。特に、行政の街づくりは1年2年で結果を出そうとする傾向にある。街は10年20年かけないと、魅力的な街にはならない。政令市以上の大都市では「民間でつくる街」 が主流であるが、残念ながら富山では 「行政がつくる街」 とならざるを得ない状況だ。その結果、行政が関わった再開発ビルなどでは、そのほとんどが経営に苦しんでおり、行政の出先機関で空き店舗を埋めている状況にある。その一方で、金沢では民間資本での街づくりが増えつつある。こういった点でも、富山の街づくりは遅れてる状況だ。今後、いかにして 「民間での街づくり」 を実現させられるかが、鍵となるだろう。
<かつて計画された市街地再開発構想>
富山市の市街地再開発構想は、かつて大型のものが、いくつも計画されていた。そのひとつに、城址大通りに一大地下街を造ろうというものだ。JR富山駅から平和大通りの間、約千三百メートルに幅20メートルの地下街を建設しようというもの。昭和63年頃に大手ゼネコンで構想され、事業費は312億円とも言われた。通路の両側には店舗を配し、天井はアーチ型として、ゆとりのある空間が検討され、各交差点下には6つの地下広場も設けるというスケールの大きなものだった。しかし、その実現には至っていない。
また、昭和58年頃には、富山駅周辺の3街区で再開発構想があった。現マリエが建つ駅東街区は、国鉄宿舎と地鉄用地跡地。当初は、売り場面積3万平米を超える百貨店誘致を目指していたが、富山県に興味を示す大手百貨店がなく、ファッションテナントビルとなった。売り場面積も計画を縮小して1万平米弱となり、当初計画にあった地下階も取りやめとなる。現CICが建つ須田街区も、当初は売り場面積2万5千平米規模の百貨店誘致を目指していたが、こちらも誘致に失敗。金沢の丸越百貨店やスーパー系のジュニア百貨店などにも誘致を試みたが、結局は実現しなかった。こちらもファッションテナントビルとビジネスホテルとなる。だが、ファンションテナントは、先行してオープンしたマリエよりも売り場面積がさらに小さく7千平米弱の規模となった。この中途半端な売り場面積が、その後の経営難となり、破綻へ追い込まれる。最後の西街区は、飲食・レジャー・ブライダル系の再開発ビルを目指すも、こちらもビジネスホテルとなった。
このように、富山市の市街地再開発構想は、いずれもうまくいかなかった。その原因は、富山が商圏として魅力を感じてもらえないかったという事ではないだろうか。もし、昭和30年代に構想された、市町村合併による百万都市構想が実現していたならば、まったく違った結果となっていただろう。現代において、過去の失敗を反省する必要がある。その反省にたって都市戦略を立案しないと、富山市の中心商業地は再生することができない。
富山の場合は、街を演出する事も苦手としている。再開発ビルは箱を造るだけで、「魅せる」 という部分が無い。金沢の街づくりは、香林坊の再開発ビルや金沢駅高架下の百番街のように、ビルの外や中には水辺空間を造り、通路や道もカーブや高低差を設けて、街に変化を持たせている。だから、歩いていて楽しく感じるのだ。東京・渋谷のスペイン坂や原宿・竹下通りが人気なのも、街に変化があるからである。